グルジアが「ジョージア」に変更

旧ソ連諸国の一つ「グルジア」」の国名表記を「ジョージア」に変更になるそうだ。

グルジアの国名はグルジア語では「サカルトベロ」だが、関係者によると国連加盟国193か国のうち約170か国は、英語表記に基づく「ジョージア」という呼称を使っている。ロシア語の表記が起源の「グルジア」という呼び名は、ロシアと旧ソ連圏と中国、日本だけなのだという。

国の読み方にもよくあることだが、英語圏だと「マイケル」という名前がフランス語圏だと「ミッシェル」、ドイツ語圏だと「ミヒャエル」となったり、国が違えば呼び方が異なるというのはそれぞれの国の時代背景なども影響していると考えると面白いものである。

何故番号があるのか

子供のころ、公衆電話の前を通りかかったらその電話の着信音が鳴った。

何だか怖くて、走って逃げたのを覚えている。

でも電話がかかってくる、という事はちゃんと電話番号がある、ということだ。

なぜ公衆電話に電話番号があるのかというと、電話が正常に動くかどうかの試験をするためだとか。
設置時と定期試験の時に実際に公衆電話に電話をかけて動作を確かめている。電話番号を公開していないのは、
悪戯や悪用を防ぐ為の様だ。

大半は間違い電話らしい。

苦労の果てに

ジョーリンターナーはロニーやグラハムの後釜だった事もあり、非常に厳しい評価を受けた。

だが過小評価だったと、今ならハッキリしている。その後のパープル参加の時も、非常に良い仕上がりだったのだが。

パープルを脱退したジョーは、そのころはパープル時代のあまりにもその人間関係の醜さやレコード会社とのしがらみなどが原因で本気で音楽業界から嫌気が差したとのこと。しかし、ジョーほどの男がそう簡単に音楽をやめることなどできるはずがなく、しばらくしてソロ活動をはじめ、およそ10年ぶりとなるセカンドアルバム「Nothing to Changed」をリリース。決して地味な印象はぬぐえないがすばらしい内容の作品だと思う。

今でも地味に活躍していて、日本のHRファンにとって人気のシンガーの一人だ。

これは知らなかった

かつて、小人プロレスというものがあったのを初めて知った。

長年プロレスファンでありながら。

主には全女の前座だった様だが、身長110センチ程度のレスラー達がプロレスを展開する。

笑いを取る為にやっていたそうだ。

会場でしか見られず、TVでは完全カットなのだから、知らなかったのも当たり前かもしれない。

リトルフランキーという選手が有名だった様だ。

小人の人達がテレビに出たりすると、すぐに「差別だ」という声を挙げる人が居るが、それによりテレビ局が彼らを出さなくなると、仕事がなくなって困るのは結局彼らの方なのだ。

本当にこれは難しい問題だ。

珍しい客

青森の深浦町に、コクチョウが2羽飛来したそうだ。

これは大変珍しく、地元で評判になっているらしい。

コクチョウはオーストラリアなどが原産で、青森県内湖沼での確認例はまれだと言う。

住民が数十センチ近くまで近づいても警戒するそぶりをあまり見せず、与えたパンくずを食べていたというから、人間に慣れているという事だろう。

という事は、飼育されていた可能性が高い。

こういう場合は、そっとしておくのが良いのだろうか。

露土戦争

1875年に発生したヘルツェゴヴィナ蜂起を支援するため、1876年、セルビアとモンテネグロはオスマン帝国に対し、宣戦を布告した。
しかし両国はオスマン軍によって大きな打撃を受けて休戦を余儀なくされたうえ、同時期に起こったブルガリアにおける反オスマン反乱であるブルガリア人の四月蜂起も鎮圧された。
このとき、4万人におよぶブルガリア人がオスマン帝国の軍民により虐殺され、この大虐殺の詳細が明らかになるにつれヨーロッパ諸国では衝撃が走った。
オスマン帝国はイギリスの支援を得られなくなり、単独でロシアにあたらざるをえなくなった。

ブルーコメッツ

「グループ・サウンズ=不良」のイメージが強かった1960年代当時、数多のグループ・サウンズの中でザ・ワイルドワンズと共にNHKへの出演が許され、NHK紅白歌合戦に第17回から3回連続で出場した。
これは他のグループ・サウンズと違い、外見が短髪でスーツ姿=銀行員風と言うのが世間一般に評価されたことによるものである。
もっとも、メンバーにしてみれば、長髪が似合わなかったから短髪にしていただけで、NHKへの出演を意図していたものではなかった。
逆にコンサートなどでかつらを被って長髪を試したところファンに不評だった。
しかし、ビジュアルイメージを考えていなかったわけではなく、ショーン・コネリーが演じるジェームズ・ボンドをコンセプトに、全員が移動時におそろいのアタッシュケースを持っていた。

サンドマング

未開であった島の西北部では、フランス人やイングランド人の海賊たちが1625年に沖合の島トルトゥーガ島に初の拠点を置き、スペイン船などを襲いながら海賊同士の交易を行い野獣を狩って生活した。
スペイン軍はしばしばトルトゥーガ島を掃討したが、海賊たちが獣や新鮮な水を求めて戻ってくることを止められなかった。
1659年、フランス王ルイ14世はトルトゥーガ島を公式に植民地とし、新設されたフランス西インド会社が1664年に植民地経営を引き継ぎ、公式にイスパニョーラ島本土の西部の領有を宣言した。
1670年には島北部に本土初の入植地カプ=フランセを築いた。
衰退しつつあったスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年のライスワイク条約で正式に島の西側三分の一がフランス領となった。
フランスは新植民地に「サン=ドマング」と名づけた。

デビアス

ヨハネス・ニコラス・デ=ビアとディーデリック・アーノルダス・デ=ビアの、二人のアフリカーナー人農民の農場名に由来している。
オレンジ川とバール川が合流する、ヴールイトツィヒトと呼ばれる地点の付近でダイヤモンドが発見された。
しかし兄弟は続いて起こるダイヤモンドのラッシュに農場を維持することができずに、6300フランで農地を売ることになった。
兄弟は鉱山の所有者にはなれなかったが、これらの鉱山のうちの1つは二人に由来して命名されている。
セシル・ローズは、ライバルであるバーニー・バルナートのキンバリー鉱山も吸収統合することで圧倒的なシェアを実現した。

海軍航空本部

日本海軍は従来航空分野に関する中央総括部署を持たずに、海軍省内部部局や艦政本部が別々に分割担当する態勢を取っていた。
しかし、刻々と進歩する航空分野に十分対応するためには統一的に管轄する担当部署が必要であるとの認識から航空関連部署を新設することになった。
これが海軍航空本部であり、海軍航空本部令により艦政本部から分離独立する形で設立された。
以後、航空行政を総括する立場から航空戦力増強を推進、それにともない組織も順次強化されていった。
終戦後の1945年11月30日、海軍省廃止に伴い海軍航空本部も解散した。